「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」
(会期:'2018・5/30[水]~9/30[月]) 会場 東京展:国立新美術館 記者発表会 |
'2018 2_8 会場:日テレホール (日テレタワー2階) 東京・新橋 にて 「ルーヴル美術館展」 の記者発表会が行われました。
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【司会】 青木 源太(日本テレビアナウンサー) 【登壇者】 中山 良夫(日本テレビ放送網株式会社 取締役 執行役員) 青子 保(国立新美術館長) 原田 真由美(読売新聞東京本社 事業局次長兼文化事業部長) 大関 雅人(株式会社BS日本 取締役) 篠 雅廣(大阪市立美術館長) 赤座 弘一(讀賣テレビ放送株式会社 専務取締役) 榊原 正一(野村證券株式会社 専務) 【概要説明】 宮島 綾子(国立新美術館 主任研究員) |
LOUVRE
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L'art du portrait dans les collections du Louvre |
ルーヴル美術館展 |
肖像芸術―人は人をどう表現してきたか |
人の似姿を描く肖像芸術は、古代より長い歴史をもつ芸術ジャンルです。 肖像はいかなる役割を担ってきたのか。 肖像の制作にのぞんだ芸術家たちは、どのような素材や手法を用い、どのような表現を生み出してきたのか。
本展は、ルーヴル美術館の豊かなコレクションを通して、肖像芸術の社会的な役割や、その表現上の様々な特質を浮き彫りにするものです。
本展には、ルーヴル美術館が誇る肖像画の傑作、ヴェロネーゼの 《美しきナーニ》 をはじめ、3000 年以上も前の古代エジプトの棺用マスクから、古代ローマの皇帝、ルイ 14 世やナポレオンなどの君主像、華麗な女性や愛らしい子どもたちの肖像まで、数々の肖像の名品が堂々集結します。 肖像芸術の世界を余すところなくご堪能いただける、かつてない展覧会です。 “美の殿堂” ルーヴル美術館、全 8 部門による全面協力のもと、およそ 110 点の傑作が一堂に会します。 これまでに例を見ない大規模な肖像展を通して肖像作品がもつ魅力を広く伝えるべく、企画構成になっています。 |
会期: 2018 5/30 [水]~ 9/3 [月] 休館日: 毎週火曜日(ただし 8月 14日(火)は開館 ) 開館時間: 午前 10時 ~ 午後 6時 (毎週金・土曜日は、5・6月は午後 8時まで、7・8・9月は 21時まで) ※入場は閉館の30分前まで 会場・東京展: 国立新美術館企画展示室1E (東京・六本木) 主催:国立新美術館、ルーヴル美術館、日本テレビ放送網、読売新聞社、BS日テレ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(大阪展)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 会期・会場・大阪展: 2018 9/22 (土) -2019 1/14 (月・祝) 大阪市立美術館(大阪・天王寺公園内) 主催・大阪市立美術館、ルーヴル美術館、読売テレビ、読売新聞社 |
'2018 2_8 「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」の記者発表会のご紹介です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」 |
青木源太(日本テレビアナウンサー)& |
ルーヴルの顔が一堂に会します! |
「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」 Press Release、プレス説明会、他よりの抜粋文章です ― |
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「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」 【見どころ 】 |
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展示構成 (スライド画像と解説・抜粋文でご紹介しています。) |
画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。 |
プロローグ: マスク―肖像の起源 |
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左・1 《棺用マスクの顔の部分》 新王国時代、第 18 王朝、アメンへテプ 3 世の治世 (前 1391-前 1353 年) エジプト出土 木、黒色・白色の石、青色のガラス 18
x 17 x 1 1cm photo © RMN-graand palais (musée du louvre)/Franck
Raux/distributed by AMF-DNPartcom |
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左・1 エジプトのミイラの棺は、初期王朝時代 (前 3100-前 2700 頃) は長方形でしたが、新王国時代 (前 1570 頃-前 1070 頃) にはミイラをかたどった木製の人型棺が広く普及しました。 本作は蓋の頭部を飾っていたマスクの顔の部分で、本来は釘で蓋に固定されていました。 その顔立ちは、故人の容貌を再現したものではなく、来世で永遠の生を得るにふさわしく理想化された顔の定型表現に従っています。 右・2 エジプトがローマ帝国の支配下にあった 1-3 世紀頃には、ミイラの頭部を飾るために板絵の肖像画が盛んに制作されました。 これらのミイラ肖像画は、19 世紀末にファイユーム地域で数多く出土したことから 「ファイユームの肖像画」 と呼ばれます。 蜜蝋と顔料を混ぜて描く 「蝋画」 の技法を用いて、顔や髪型から衣服まで実物に即して描写されており、おそらく生前に描かれたものと考えられています。 ローマ美術の写実表現の影響を受けたこの時代のエジプトでは、ミイラ肖像画も故人に似せていることが重視されました。 本作でも、大きな瞳が印象的な女性の顔立ちは、鼻筋やあごのラインに微妙な陰影がほどこされ、緻密に描出されています。 真珠のイヤリング、大粒の金の首飾りなど豪華な装身具の描写から、上流階級の女性と推測されます。 |
第2章: 権力の顔 記憶と並び、肖像芸術が最も古くから担ってきたもう一つの役割が 「権力の顕示」 です。 王や皇帝など最高権力を振るった君主にとって、自らの似姿である肖像は権勢を広く知らしめる最も有効な手段でした。 そこには、誰が見ても君主だと分かるように、各時代・地域・社会の文脈に応じて構築された表現コード (決まった表現の仕方・表現上のルール) が用いられています。 たとえば、紀元前三千年紀末頃の古代メソポタミアの王は、《ハンムラビ王の頭部》 と通称される像のように、縁のある被り物をかぶった姿で表されました。 本章では、絶対権力を握った君主や、王妃・王女を表した作品を通して、権力者の肖像表現の特質を浮かび上がらせます。 さらに、古代ギリシャの詩人ホメロスから 19 世紀フランスの文豪バルザックまで、「精神の権威」 ともいうべき哲学者や文学者の肖像も紹介します。 |
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左・9 アントワーヌ=ジャン・グロ 《アルコレ橋のボナパルト (1796 年 11月 17日)》 1796 年 油彩/カンヴァス 73 x 59 cm photo © RMN-graand palais (musée
du louvre)/ Hervé Lewandowski /distributed by AMF-DNPartcom |
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左・9 《アルコレ橋のボナパルト(1796 年 11 月 17 日)》 1796 年、イタリア遠征軍総司令官に抜擢された 27 歳の若き将軍ナポレオン・ボナパルトは、オーストリア軍との戦いを指揮し、北イタリアのアルコレ橋の上で立ち往生する兵士たちを見て、三色旗を掲げて橋に突進し、士気を高め勝利を収めました。 当時 25 歳の作者グロは、妻ジョゼフィーヌを介して、肖像画を制作する承諾を得ました。 中・10 1804 年 12 月 2 日、ナポレオン・ボナパルトは教皇ピウス 7 世から戴冠され、フランス皇帝に即位しました。フランス王家がユリを紋章としたのに対し、ナポレオンはフランス最古の王朝と見なされるメロヴィング朝ゆかりのミツバチを皇帝の紋章に制定し、マントにはミツバチが散りばめれています。 右・11 1821 年 5 月 5 日、追放先の孤島セントヘレナで病に伏したナポレオンが息をひきとると、イギリス人の主治医バートンが石膏でデスマスクを制作しました。 しかし、同じく主治医であったイタリア人のフランチェスコ・アントンマルキは、デスマスクの顔の部分だけをフランスに持ち去って、1833 年にデスマスクの複製をブロンズと石膏で作成し、予約制で限定販売しました。 本作品は、当時のフランス国王ルイ=フィリップがデスマスクを当時政策上、入手した石膏作品の内の 1 点です。 |
第3章: コードとモード 古代以来の 「記憶」 のための肖像、そして 「権力の顕示」 のための肖像は、王侯貴族や高位聖職者のみが制作できた特権的なジャンルでした。 しかし、ルネッサンス以降のヨーロッパでは、社会の近代化に伴ってブルジョワ階級が次第に台頭し、有力な商人や銀行家から、さらに下の階層まで、肖像のモデルの裾野が広がっていきます。 こうした肖像は、古代より培われた上流階級の肖像表現のコード (決まった表現の仕方・表現上のルール) を踏襲しつつ、一方では各時代・地域・社会に特有のモード (流行) を反映しながら、じつに多様な展開を遂げました。 本章では、ルネサンスから 19 世紀までのヨーロッパ各国の肖像作例を、男性、女性、子供と家族などの主題別に紹介しながら、コードとモードが錯綜する中でどのような肖像表現が展開されたのかを考察します。 |
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・16 ヴェロネーゼ 《女性の肖像》、通称《美しきナーニ》 1560 年頃 油彩/カンヴァス 119 x 103 cm photo © RMN-graand palais (musée du louvre)/ Michel Urtado /distributed by AMF-DNPartcom | |
16 世紀後半のヴェネツィアを代表する巨匠、ヴェロネーゼ による 《女性の肖像》、通称 《美しきナーニ》 は、1914 年にルーヴル美術館に所蔵されて以来、ルネサンスの肖像の最高傑作の一つとして大切にされてきました。 《美しきナーニ》 の名前の由来―1870 年、ロシア人の実業家で高名なコレクターでもあった サン・ドナート公アナトリー・デミドフが亡くなり、彼のコレクションがパリで競売にかけられましたが、その中にこの作品が含まれていました。 美術史家エミール・ガリションの競売に関する論文でヴェネツィアの名門貴族ナーニ家にあった肖像作品に結び付けて 「美しきナーニ」 の名を用いました。 この作品がナーニ家とは無関係であることが 20 世紀後半に判明してからも、親しみ深い通称として今日まで受け継がれています。 作者の ヴェロネーゼ (1528-1588) は、ティツィアーノ (1488/90-1576)、ティントレット (1519-1594) と並んで、16 世紀ヴェネツィア・ルネサンスの三大巨匠の一人に数えられます。 |
ルーヴル美術館 |
ルーヴル美術館 館長 ジャン=リュック・マルティネズ (展覧会プレゼンテーション映写画像より抜粋) © pyramide du Louvre, arch. I. M. Pei |
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【メッセージ】 ルーヴル美術館 館長 ジャン=リュック・マルティネズ ―PRESS RELEASEより抜粋文章― |
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2018 年、フランスと日本は日仏友好 160 周年記念を迎えます。 両国はこの間、相互に魅了し、尊敬し合いながら友情を深めてきました。… |
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「ルーヴルはフランスの歴史」 ―約 830 数年間の歴史が語る ― |
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中世のルーヴル 国王フィリップ 2 世が、1190 年頃、十字軍の遠征に参戦し、国を離れる際、パリ防衛のため都市計画として城壁の建設始める。 ルーヴル城はフィリップ
2 世の時代、王の住居ではなく守備隊のための城塞であった。 その後、ルーヴル城はフランス国王の住む宮殿として、増改築が繰り返されることになる。 国王の住居としてのルーヴル イギリスとの百年戦争が終わった後も、歴代のフランス王はルーヴル城ではなく、ヴァル・ド・ロワール (ロワール渓谷)で過ごし、パリに戻るのは年に数回だけとなった。 フランソワ 1 世 (1515-1547 年) は、首都を再び掌握したいと考え、1528 年に公式宣言を発表して国王の主な居を首都に定めた。 フランス・ルネサンス期を代表する国王で、治世にフランスの美術・文芸は重要な発展を見る。 美術品の収集にレオナルド・ダ・ヴィンチ 《モナ・リザ》 など残されている。 1546 年、フランソワ 1 世はルーヴル城をルネサンス様式の壮麗な建物への改築を決定したが翌年に死去した為、改築工事は息子のアンリ 2 世に引き継がれ、完成に約 1 世紀を要した。 ブルボン朝の再開発 ブルボン朝初代国王アンリ 4 世 (在位:1572-1610 年) は、首都パリの大規模な再開発計画を実行し、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建設、アンリ 4 世は、あらゆる芸術家・工芸家を招いてルーブル宮殿に住まわせ、創作活動を行わせた。 アンリ 4 世が 1610 年、狂信的なカトリック信者によって暗殺され、幼くして即位した国王ルイ 13 世はブルボン朝で初めてハプスブルク家と政略結婚をした。 1643 年 5 月、ルーブル宮殿で 41 歳に崩御。 その後わずか 4 歳で、のちの太陽王ルイ 14 世が即位し、絶対王政を築く、ルーヴル宮殿の拡張工事が行なわれたが、1661 年に、狩場のヴェルサイユの地の小館を造営し、正式に王宮をヴェルサイユ宮殿に移す。 王族が不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居兼アトリエとして提供された。 権力者の舞台ルーヴル 1789 年、20 万人のパリ民衆がヴェルサイユ宮殿に進行し、国王ルイ 16 世をパリへ連行、フランス革命を呼び起こした。ルーヴル宮殿は民衆に奪われ、共和国美術館は、王室コレクションを公開した。 1803 年、ルーヴル美術館は、「ナポレオン美術館」 へと改名され、スペイン、オーストリア、オランダ、イタリアなどの美術品が収蔵された。 ナポレオンが皇帝の地位を追われると、1814 年 5 月、国王ルイ 16 世の弟ルイ 18 世が、チュイルリー宮殿に入り、王政復古の時代が訪れる。 1848 年の 2 月革命でルイ・フィリップを最後のフランス国王とする王政が崩壊し、第 2 共和制が成立、大統領になったルイ・ナポレオン・ボナパルト (ナポレオンの甥) は、ルーヴル宮殿の新しい展示室の落成式を行った。 その後、皇帝ナポレオン 3 世は、ルーヴル宮殿の大規模な増築工事とチュイルリー宮殿をつなぐ工事が完成した。 近代のルーヴル 1871 年にチュイルリー宮殿が炎上し、 第 3 共和制の大統領は、代々の国王や皇帝が住んでいたチュイルリー宮殿ではなく、もっと地味なエリゼ宮を公邸にすることを決めた。 1882 年に政府はチュイルリー宮殿の残骸を撤去を決め、以後、この場所には美術館としての役割を果たすようになったルーヴル宮殿だけが残されることになった。 1983 年、当時のフランス大統領ミッテランが推進した 「パリ大改造計画」 の一環である 「大ルーヴル計画」で建物が改築され、宮殿全体が美術館になった。 1988 年に、「ナポレオン広場」 にガラスのルーヴル・ピラミッドが落成した。 |
お問合せ:03-5777-8600 (ハローダイヤル) 展覧会サイト:http://www.ntv.co.jp/louvre2018 国立新美術館サイト:http://www.nact.jp 主催:国立新美術館、ルーヴル美術館、日本テレビ放送網、読売新聞社、BS日テレ 後援:在日フランス大使館、アンスティチュ・フランセ日本 特別協賛:野村證券 協賛:大成建設、大日本印刷、損保ジャパン日本興亜 協力:エールフランス航空、KLMオランダ航空、日本通運、JR東日本、CS日テレ、 ラジオ東京、J-WAVE、文化放送、TOKYO MX、テレビ神奈川 企画協力:NTVヨーロッパ |
参考資料:「ルーヴル美術館展 肖像芸術―人は人をどう表現してきたか 」PRESS RELEASE & 報道資料 、他。 |
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